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2009年05月02日

水神槍2−4

 お前は、自らの近況について話そうとしなかった。女がネグリジェを着てくすくすと笑い、お前の右腕に絡み付いて離れなかった。いくら質問しても、いろいろな、とか、まずまずだよ、という空返事ばかりで会話を繋いでくれないお前に、私はこれまでの日々を語り通してやった。お前の呆けた面構えにむかついたからだった。

 お前は、私の探索も、秘湯も、彼等の越冬についても、君は伊達男と呼ばれるべきだよ、とか、君に異性のパートナーがいないなんて信じられない、といった返事をするばかりだった。お前からは白熱を呼び覚ます質問の一つや二つが飛び出してしかるべきだった。共に実習でラットを解剖した冬、このキャンパスに生命の科学を体得する礎を見出せた、と喚き散らした時の感奮が発信されるべきだった。当時の私は、熱意に染まったお前と学生実習を乗り切る度に、お前さえ学友であるのなら生命に肉薄した一生を貫けよう、と自身で打ち立てた理想の虜になったものだ。実際には、地方の研究受託会社が半年でぶっ潰れ、首都圏の雑居ビルを本社として構える医薬品販売会社の営業マンに転職し、世の動向を読むことなく得意先を機械的に駆けずり回り、全社で最下位の営業成績を不動の地位にして職務を放棄したが、あんなものは本意でも建前でもなかった。人並みの安定を手に入れてくれなければ私立の医科大学並みに授業料の高い大学に進学させた甲斐がない、と断食の願掛けを続ける両親を止めないわけにはいかなかった。そのための応急措置にすぎなかった。それ以外の入社の動機などなかった。

 洗面所で髭を剃った私は、その場で拾った輪ゴムで腰骨まで届く長髪を束ねた。お前は、色男だねえ、とにやけた面で私を褒めそやし、女も初めて笑顔を見せ、犯されたいかも、と言った。そんな感想はどうでも良く、トランクスから見え隠れする陰毛を同伴の女と弄くって遊ぶお前に対して、志を何処に置き忘れてきたのか、とぶちまけたかった。

 かといって、友の堕落に感情的になったところで、何かが進展するわけではなかった。むしろ、好機と考え直した。あるべきお前を呼び戻せるかもしれない、と期待して三個のタッパーを取り出し、卓袱台に置くと、蓋を開けてポリタンクの水を足した。彼等は、長いこと密閉されていた。窒息死するか高温でのぼせてくたばっていても、おかしくはなかった。むしろ、命ある物には当然の成り行きといえた。ところが、振とうに反応しない彼等の頭を突くと、生き木魚がフリルの襞をうねらせ、三つ目が奇眼を左右に動かし、角の鏃が泡沫を漏らして角を振った。お前は目を擦り、タッパーの中を見つめた。女が、気持ち悪い、エイリアンじゃないの、と怖がったので、蛙の希少種の子供だ、と答えてやった。

 私は、三匹を如何にして見つけ、各々の形質が如何なる要因によって得られたものなのか、について、改めて解説した。お前は、にんまりとしてうんうん頷いては、脇の毛を抜き取り、女の乳房を掴んだ。しかし、お前の視線が三匹から外れることはなかった。

 ついに出たお前の質問は、核心を突いていた。それこそが本来あるべき態度だった。池にはDDTやビスフェノール等の内分泌撹乱物質が含まれていたのではないのか、それらの有害物質は小屋で温泉宿を経営していた商売人か過去に縦走した登山者が放置していたかもしれない廃棄物より漏出したものではないのか、と自然による幼形成熟を疑問視したのだ。アフリカ大陸に生息するリードフロッグのように雌雄で体色が悉く異なる蛙では、内分泌撹乱物質が女性ホルモンとして作用すると、雄の体色が雌のそれへと様変わりするという。卒研生のお前が担当した文献ゼミで知った。しかし、池の彼等の親を見つけられなかったので、成熟個体が如何なる形をしているのか、弁明のしようもなかった。三匹についても、解剖もせずに断定するのは禁物だ、別々の種かもしれない、と反論し、返す刀で、幼形成熟を強調する私の論旨自体について、ヒトの胎児誕生までにヘモグロビンの型が変化するように、変態という現象は巨視的な形態変化でなくとも大部分の動物で起こっているのだから担ぎ上げる必要もないのでは、と一蹴したのだった。

 私は、同じ主張を繰り返して反論を続けた。お前は立ち上がって言った。君がそこまで拘るのなら、捌こう。お前は、タッパーに手をかけた。私は、遮った。勿論、ここでのお前の行為は、生命現象を解明するための科学的な手続きとしては過ちではなかった。しかし、幼形成熟の信憑性がどうであれ、お前の持論の成否がどうであれ、台所への直行はあり得なかった。池の彼等との季節が、数十分の解剖で御破算になるのは我慢ならなかった。

 お前はタッパーを力ずくで奪い、右手に生き木魚を、左手に角の鏃を掴み取った。私は三つ目を掴んで馬乗りになり、小刀を突き立てるようにしてお前に構え、睨みつけた。残りの二者も、お前の頬に顔を向けていた。私は、普段なら胸中に抑えつけて済ませる悪口雑言を連ねた。何処までも、言い足りなかった。どれだけ憤慨しても、踏ん切りがつかなかった。それでも、二匹をかっぱらったお前から身を離さなければならなかった。お前は顔色を墨色に変えて硬直したかと思うと、舌をだらりと伸ばし、体液を吐き出したのだ。天井がずぶ濡れになり、お前に降り注いだ。

 昏睡状態となっていたお前の手首の脈拍が止まったのは、夜が更けてからだった。女は、卓袱台にあったウイスキーの小瓶と煙草入れをブランドものの鞄に入れ、弔うから手伝って、と言った。庭土を掘って墓穴とし、お前を眠りに就かせた。

 女は煙草を吸い、お前が家に置いていたという現金を掴み取り、去り際にこんなことを言い残した。もう金蔓はないから、ここはお終いね。風呂敷には、紙幣が何枚か残っていた。友として、生活資金として、私は頂戴した。お前の墓前に黙祷を捧げ、夜明けと共に庭を去った。

 鈍行でお前から遠ざかり、座席の座り心地と景色の遷り変わりに飽きてきたところで、とある駅に下車した。これといった理由はなく、気分だけでそうしたのだ。まもなく、無人の平屋の校舎を見つけた。

 その日から、鍵のかかっていない校舎で一番風通しの良い教室を棲家にした。お前の遺産で、生活に必要な食糧と道具を駅前の売店で買い揃え、三匹を眺めて過ごした。

 三匹は平穏無事だった。突けば全身を震わせてタッパーに体を擦らせ、菓子パンの屑を落としてやるときれいに食べた。観察に疲れると、放置されていた教科書を読んだ。時折、青空には明るい夢ばかりが飛翔していると誤解していた学生時代をふと回想し、切なくなりそうにもなったが、親のやつれ姿に屈して製薬業界に足を踏み入れた悔いが充満し、すぐに中断した。教科書に飽きると、再び三匹と向き合い直した。毎日がそうだった。それだけのために起床し、摂食し、排泄し、就寝した。

 それから、酷暑が猛威を奮った日が続き、校庭の土は捲れ、淀む大気によって眺めが歪むようになった。それに比べ、木造の室内は冷えて乾いたままで、居心地が良かった。私は、タッパーを横から正視してみた。三匹がどんな顔つきをしているのか、改めて確かめたくなったのだ。ところが、射止められ、逃れられなくなった。三匹のうち、目があるのはその名の通り三つ目だけで、角の鏃と生き木魚には目と呼べる器官がなかった。どちらも、のっぺらぼうといえた。それなのに、彼等と対面していると、心理の深層まで見透かされている気分に駆り立てられた。抵抗しようと目を逸らしても、視線を外せなかった。喉元に生温かいものが詰まったように感じて吐き出したくなったが、お前が絶命した晩を思い起こし、唾を飲み下した。そして、全身全霊で睨み返した。すると、彼等の顔が、私を貪ろうと殺気に溢れているのではなく、間然するところのない満足げな笑顔に思えてきたのだ。無自覚に、雪渓を踏み拉いて成体へと成熟しない群に通い詰めた日々が目に浮かんだ。

 三匹の真顔と付き合っているうちに、青空を仰ぎたくなってきたので、かんかん照りだというのに、瓦屋根に登って深呼吸した。一台の乗用車が、校庭に侵入し、校舎の前で停まった。着物姿の男が出てきて、余所者のようだがこんな廃校で何をしているのか、と訊いてきた。住む場所がなくてここにいるだけのことだから放って置いてほしい、と言おうとした。しかし、剃髪した頭はもうそこにはいなかった。屋根の下で、こいつらは、という大声が響いた。

 教室に戻り、震える男の背中に声をかけようとした。袈裟から伝わる静電気が、私の肌をくすぐった。男がタッパーを見下ろして声を発していたのだが、言葉を聴き取れなかった。金属の激しくぶつかり合う音に似ていた。私は耳を塞ごうとし、後ろのめりになって転倒した。男はしゃがんで私に目線を合わせると、自らの興奮を詫びた。

 この生き物を知っているのか、と私は訊いた。

「子供だろう?」

 男は図星のことを淡々と話し、腰を上げ、何故私が知っているのか興味があるのならば山寺へ来ないか、と言った。私は二つ返事をし、その日の夜更けに、山寺の畳の間で就寝した。

 夜明け前、一度目が覚めて、半開きになっている障子戸を開けた。黒々とした塊の林から、巨樹が何本も聳えていた。その先端は、夜空を真っ直ぐに突き立てていた。林の底には円形の池があり、木々を、満月を、そして星々を丸呑みして、風景を掌握していた。その池では、水紋が生まれては死んでいた。

「あと一時間くらい、目を開けてここにいるといい」

 既に起きていた僧に言われたが、私は縁側に腰を下ろしたまま、その場で寝てしまった。再び目を覚ました時には、池には風景が残ってはいなかった。見覚えのある頭でっかちが、群を成して泳いでいた。その数は、歳月をかけても人の手だけで築けるものとは思えなかった。

「見ろよ」と僧が言った。「子供だろう?」

 彼が、女性の名前を叫んだ。ジャージ姿の若い女が、廊下を駆けてやって来た。彼女は袋を用意していた。

 そのビニール袋の中身はパン粉で、僧はそれを撒いた。池が泡立ち、私達の足下を濡らした。水面には小柄な東洋の竜のような外見の生き物が佇み、水底にはミニチュアのガラス製の樽のような物体がひと繋がりになっているのが見えた。

 前者は、あの池で遭遇した多肢の奇形のそれとは比較にもならない本数の鰭を揃え、胴体のみならず尻尾の先端まで等間隔で乱れ咲いていた。更に、濃淡に富んだ緑の斑点が、頭部から鰭にまで普及していた。斑点は葉緑素なのだろう、そいつは日向ぼっこをしたがるが、天気の悪い日には沈みっぱなしだからな、光合成で得た蓄えで過ごすのだろうよ、と僧は言った。

 後者は、数珠繋ぎとなって浮遊することもあるが、末端が底に根付いているとのことだった。鰓のような枝分かれした器官が透き通った樽状の外殻からはみ出し、パン粉を吸い込んでいた。彼によれば、一匹のオタマジャクシの節々に窪みができ、気がつけばガラス製の樽が連結したような形態に変身していたのだという。

 私は、この二体を間近で観察してもいいか、訊いた。僧は了承してくれたが、二枚の紙切れを広げ、一つ条件をつけた。

「お前の子供達も連れて来い」

 紙切れは、秘湯で見つけた手紙だった。

 既に、女がタッパーを用意していた。寝ている間、何の面倒も見て
はいなかったが、彼女が餌を与えていたとのことで、変わりなかった。

 縁側の下で浮かんでいた小船に乗り、素手で漕ぎ進んだ。住人達は、私の手の指や甲にしつこく吸い付いてきた。僧は、くすぐってえな、と笑い、群がる彼等を振り払った。奴等は食事の量を制限できない、与え続ければ野鯉よりも大きくなり、やがては体重に負けて浮力を失い、生まれつき甲状腺を欠くツメガエルの幼生のように背がCあるいはSの字に曲がり、自力で泳げる体形でなくなる、そして水底に沈没して餓死を迎えることになるのだ。彼が、タッパーの蓋を開け、三匹が放された。三匹はパン粉にすぐに馴染み、池の珍獣達に勝るとも劣らない体格にまで育った。余所者は苛め殺されて食われるのではないか、とか、逆に三つ目がまだ変身に至らない先住者に危害を加えるのでは、と案じたこともあった。僧は笑って言った。まずないだろう。その通りだった。山寺の紅葉に粉雪が降り始める頃になっても、諍いの予兆すら見出せなかった。

 山寺の子供達は、あの名山の池と同じように四肢は出来上がっていたが、尾はそのままで、蛙になることがなかった。まさかの予感がした。オタマジャクシの原産地について、僧に訊いてみた。

「元からここで暮らしていたのではない」

 その時の彼は、私の寝泊りする畳の間に収納されていた観音像を掃除していた。

「俺の宗派の開祖が、万年雪の山から運んできたのだよ」

 見ろよ、と私に仏像を手渡した。その木造りの観音像は、オタマジャクシを抱いていた。開祖の作品とのことだった。彼は名山で修練を積んでいた時に一体の水生動物を発見し、後にこれに関する膨大な知見を巻物に著したのだが、池に馴染んでいる五体もその中にあるというのだった。





posted by ロスジェネ at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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