だが、誰もが十歩と行かないうちに立ち止まった。そんな若年達の間を、老科学者は深呼吸して進み、螺旋状に巻かれたスロープを下った。そのスロープは、樹海との高度差を縮める度に稲妻の形をした亀裂を増し、彼が歩くだけで上下に揺れた。
老科学者は立ち止まり、夜霧という名の治安維持部隊の追撃を免れる時も、市場競争や社会保障をとうの昔に放棄した荒くれの住む地下街を突破する時も、手放すことのなかった水槽を見つめた。彼の生んだ立襟鞭毛虫が、膣内を必死に登る人間の精子のように、忙しなく動き回っていた。
「大丈夫だ、いい子だから」
ちょうどその時、錯覚から立ち直った若者達が、喜び勇んでスロープに踏み込んだ。かけられた体重がスロープの皹という皹に力添えした。雷鳴に似た響きが一斉に亡命者達へと通電し、足場が切れ切れになり、支柱も鉄筋も建設時に使われなかったスロープが分断された。逃亡者達は目を瞑り、都市で生きてきた時から権力に譲らなかった思いを肯定し、不撓不屈の意志を結束させ、必勝の怒声をあげた。樹木の枝をぶっちぎるアスファルト上で、老科学者は莞爾とした笑みを浮かべた。
スロープの空襲が止み、樹海はいつもの平静な緑の海に戻った。
この地が自然淘汰の専制の場であることを、誰もが心得ていた。墜落の際に両足を複雑骨折した者や内臓が潰れて寝たきりになった者は、負傷しなかった同志の将来が結実するよう祈り、自らは生き埋めになることを願った。負傷者は、地面を手で掘った竪穴に埋葬されたが、行く末を見届けられるよう、首から上は土を被せられなかった。
老科学者は、死に瀕してはいなかったが、初めから埋葬された姿勢になっていた。その彼に、スライム状の粘菌が這い寄った。胞子形成に必要なエネルギーの無心だった。彼は、首筋に出血の生温さを感じていたが、痛みはなく、この地こそがまほろばたる地球の姿を未来永劫まで残せる楽園なのだ、と先人の学究と実践に深謝していた。その間、粘菌を頭に被った現実の個体は、頭皮から脳味噌までを食べ尽された。捕食者は、生殖の機が熟したことを確信し、人骨を食べ残して去っていった。
命を失った老科学者は、死に体となった惑星を快癒させる目的で確立した緑化技術の種苗が手元から離れたことに気づき、意識として四方を見渡した。幹に山盛りになって定着した苔から、木漏れ日を反射するアクリルの粒が幾つも見つけられた。そして、僅かだったが、水溜りへと伸びた根に落ちているのもあった。その溜りで営まれていたプランクトンの繁殖の中に、彼が丹精を込めて確立した立襟鞭毛虫が混在していた。
変わりなく泳ぐそれらの微細構造の中に、老科学者の意識は、自身にとって残念な事態を抽出した。生体内に導入された葉緑体が、機能不全に陥っていたのだった。この葉緑体は、植物界では未曾有の光合成効率を有することで名を馳せていた渦鞭毛藻の一種から単離されたもので、十層の膜を持ち、独立した核を残していた。その核は葉緑体を有する単細胞生物が渦鞭毛藻の内部共生体になった証拠でもあったが、彼の関心は藻類の共生進化などではなく、植物生命の復活と酸素分子の供給にあった。
老科学者は志した最初の十年をこの葉緑体の探索と移植に使い切ったが、残りの五十年は磁性ビーズの開発と導入に捧げた。立襟鞭毛虫の体内には、ミクロン単位の直径を持つ磁性ビーズも導入されていた。生体の先端に局在するそのビーズは、磁力を無視した気ままな運動を妨げた。海綿動物の体内には摂食を司る襟細胞が存在するが、老科学者はこれに酷似した群体性の希少種に目をつけ、葉緑体を導入し、磁性ビーズを馴染ませ、電磁波で磁力を微調整し、思い通りの規模の群体を再現性のお墨付きで作成可能にした。
それまでの歳月を、政府の差し金による抜き打ち監査から幾度も逃れてきた。食品会社の出資で作ったお化けトマトで自宅を迷宮に仕上げ、地下の実験室への抜け穴を遮蔽していたのだった。口達者な秘密警察気取りは、神聖視されていた食物に手を出せず、農園を歩ける順路から見渡すだけだった。彼等は、帰り際に決まってこう言った。
「食糧自給率百パーセント維持の貢献に奮闘せよ。元首様のご意思だ。忘れるなよ」
当時は治安維持の夜霧がまだ目を光らせていなかったが、自然界の消滅がもたらす世界の終焉を予見し、その危機感に脅かされた市民達が、見た目は農場の実験施設で、作業員の肩書きで地球共生系の哲学を修得した。政府直属の走狗達はといえば、その夜会を元首への報恩の具現化だと感服し、ついには監査の義務を免除した。
立襟鞭毛虫は、今、自然界の磁力にさらされていたものの、砂鉄を含有する石にへばりつく個体は僅かで、大多数は仲間同士で引き合った。互いの楕円球の胴体を密着させ、鞭毛を外側に向け、毛玉を模した。それから、大きな毛玉が小さなそれを取り込み、少数の大所帯が築かれ、鞭毛の根元に生え揃った襟からプランクトンを摂取した。その球状群体は、電磁波に強いられた融合が織り成すグリーンカーペットしか知らない老科学者にとって、未見にして想定外の在り方だった。



