「現れましたか?」
「まだだ。だが、焦ることはない」
元首の思惑通り、最上層の手前まで来た者はいた。ただし、壁越えの筋力と忍耐力だけでは最上層に登頂できないよう、細工が拵えられていた。前任者の治世では克己復礼を極める兆しすらなく、上層志向への強勢を少しでも緩めれば放蕩へと低落するのが彼等と見なされていた。そんな人の子への愛の鞭として、才児達に対して催眠学習が実施されていた。難民キャンプ程度の一都市に甘んじ世界随一の帝国であろうとしない怠慢を追及し、自らの夕暮れを悟らせよ。アンドロイドの警備員が旅人を生け捕りにし、幼き研究者達が倉庫に監禁された旅人を折檻した。それらに屈せず、自らの生きる正当性を論破できた者だけが、若手研究者の科学実験の補助や雑用への就職を許された。更に、ここで優良であるという業績評価を得られた者だけが、最後の壁を越えられるのだった。
元首は、壁越えを長丁場の楽しみごとして、焦らず騒がず待ち呆けた。自前の肉体の幾つかは生体成分を模倣した素材や拒絶反応のない臓器に入れ換えられ、更年期障害と絶縁できていた。ただし、顔だけは一切の改変を認めず、駆け出しの議員時代から着用していた青年の仮面を人前で外すことがなかった。側近達には、幼少の頃に受けた火傷が変色して目も当てられないと説明していた。
元首は、待ちに待ちつづけた。
そして、戸籍を勝ち得た市民に歓迎の祝辞を述べる日が訪れた。
当日、元首は控え室で時折蒸し返されるフラッシュバックに悩まされた。少年期については自ら思い出そうとしても甦ることがなかったが、鮮度の衰えの兆しすらない思い出が一つだけあった。それは必ず医師だった父との旅行で、滅んだ大国の豪華客船を参考にして造られた飛行船に乗り、世界中の小国家を遊覧するというものだった。
その企画の主催者である成金の武器商人が、父親の知的な会話を気に入り、停泊地の祝祭に誘った。酒気を帯びた若者達が裸で乱舞し、成熟した乳房や生殖器が異性同士の体で擦れ合っていた。それを観賞する若者達は、希少動物だった豚の丸焼きにがぶりつき、珍味とされた人参や玉葱のスープを零しながら飲んでいた。舞台の周りでは、楽器がでたらめに吹かれ、歌とはいえない喘ぎ声がそこかしこで不揃いな和音を発していた。終盤になって始められた踊り手同士の避妊具を使わない交接に、彼の父親は帰らざる青春を思い感涙していたが、彼自身は腹痛に襲われ、たらふく食べた屋台料理を道端に吐いたのだった。
翌日、彼は、小便のために看板を往復していた時に主催者に呼ばれ、言われるがままに望遠レンズを覗いた。睡眠薬の瓶が空っぽになっており、紐で結ばれた裸体の男女が横たわっていた。痣みたいな跡が掌にできるまで彼は遠景を見ていたが、レンズ越しの若者達から彼は看破できていた。放射能を含有する砂漠と苦境しかない現実よりも、日夜戯れてきた気休めに満ち苦痛を忘却できるあの世を選択したことを。それに、祝祭の日の彼は、吐瀉した真因を見逃していなかった。生の快感がほとばしる筈の射精と気絶の瞬間でさえも、彼等の眼差しが死者のそれとなっていたことを。
断じてあってはならない。
元首は仮面を装着し、そう自らに言い聞かせた。
執事が演説の定刻を告げた。垂れ幕が上がり、元首の立つ演台が群集を見渡せる高さにまで伸びた。母胎を故郷とする人々が、彼を見上げた。彼は、生後十年の城壁を克服した人の子達を誉め称えた。市民は、拍手喝采で応えた。到着時に慰労の金品を与えられ、辛苦を掃き捨てていたので、誰も拍手を止めようとしなかった。
元首は両手を振って市民に応えていたが、偶然にも、ひどく小柄な男が混じっているのを見つけた。正しくは少年だった。大人達の下半身に紛れ、元首を見つめていた。金髪といい、青い目といい、都市が打ち負かした大国の人種に相違なかったが、そんな形質を持つ者が何処で生まれ育ち、如何にして城壁を越えてきたのか。両親の同伴でも、足手まといにしかならない筈だが。
この日、金髪の少年自身が、彼の脳細胞に浸潤した。
とはいえ、少年は元首の一日千秋の情念など知ることもなく、とある工場で、初期の二足歩行ロボットを相手に、徒手格闘技を自学自習していた。彼の親代わりである所長は、お前の顔立ちには研究所の青少年に勝るとも劣らない利発さがあると感心し、もしお前が母親の胎内から生まれていなければ、こいつらとお仲間の人工物というわけだ、存分かわいがってやれよ、などと言って涎を垂らしていた。そう言われる度に、相手の関節を絞めて破壊し、お前等は自らのろくでなしをどれだけ知っているのか、と怒鳴りつけてやりたくなったが止した。所長は中間管理職の地位にいながら、痴呆に罹っていた。軽度で仕事もこなせていたので、上司や部下から物忘れの振りのうまいユニークな親父と見られていた。その認知症と好物の高級酒に彼は酩酊し、守秘義務をそっちのけで少年に耳打ちした。
地上のベールに閉ざされた地下世界を制圧するという密計の送り主である元首としては、居住者達の愚昧や猥雑の度合いを楽しみたくもあり、それが展開する低俗な文化に対して優越感に陶酔したくもあったが、それらは付け足した動機でしかなかった。彼は、政治家の卵を育成する私塾で老翁から聞かされた言い伝えを憶えていた。この世界の何処かに広大な自然界が集約された髄の谷という呼び名の峡谷があり、そこには使い尽くせない天然資源が眠り、その価値を知りもしない生物種が自由奔放に生息しているというのだった。
元首は、変わらぬ決意を反芻させた。
もし実在するのなら、谷を支配し、都市が高尚な人間界となるために資源を搾取するべきではないか。自制の利かない自然に社会還元の価値を見出せる生物は人間だけなのだから、そうしない手などあり得ない。
科学研究者より拙劣な知性と外見だが強靭な肉体を持つ男女が生産され、武力で争う術が叩き込まれた。武装した機械人間の需要を求める側近の声もあったが、元首は却下した。生身の人間の方が融通が利き、統帥する側にとっても感情移入できることを、人間と機械の殺生力を有した模擬戦であらかじめ見極めていたのだった。
新兵団の下準備が整った年の初め、白衣の青少年達を乗せた輸送機が、尖塔の車庫に到着した。彼等は案内役の職員と円盤型のエレベーターに乗り、数秒で最上階の執務室に着いた。執事と側近が頭を下げ、青少年達は頭を床につけて挨拶した。
一人の少年が発表用映像の補助に回り、他のメンバーは現在進行中のテーマについて紹介した。元首は自らの質問を倍返しにする返答の濃密さに満悦し、衣食住の代理となる変種の開発について助言をし、彼等を激励して別室へ去った。
すぐさま、補助役の少年が全身の関節を鳴らし、スケジュールの調整のため掌に浮かぶスクリーンを操っていた執事と退室しようとした青少年達の神経を、機械を打ち負かす体術で次々と断裂させた。元首は執務室に引き返し、死体を見つけると、清掃員に片付けさせた。そして、語った。私は自ら動いて国賊を退けられる武人を求めてやまないのだ。適者であれば、今すぐにでも招き入れたい。人種や身分は問わない。ところで、君には前々から目をつけていたが、よくここまで潜入できたな。採ろう。少年は、全身が踊り出しそうになるのを堪えた。語り手の人工的な抑揚に、守衛が鼻息のリズムで応答し、執務室の壁となるデータ貯蔵庫の下で伏せる者を何時でも狙撃できる態勢に入った。
ほどなく少年は捕獲された。彼は麻酔の弾丸を受け、ぐったりとしていた。そして、万事に備えて拘束具を着せられ、元首からの質問を、朦朧としつつも、生まれ育ったスラムの乱倫と両親を殺したサラリーマン達の暴虐そして大人達を蹴落として渡った城壁への呪詛で返し、全ての戦いを受け入れる意思を伝えた。
その日のうちに、少年は人造兵士の養成所に収監された。彼は、敵を倒すこと以外の思考の巡りを持たない男女と共に、訓練の日々を生きた。定期試験に通過できなければ間引かれるだけの飼育場だったが、彼は火葬される落第生を毎月見送りつづけ、成人の日を迎えた。
その頃、最下層では壁の内側を敵視する思想が蔓延し、海千山千の外れ者達による地下街移住が活発になった。腕力のみを生業としていた地下の原住民が新入り達の自伝を聞くにつれ、都市への敵愾心を燃え盛らせ、手作りの太刀や銃器が揃えられ、やられる前に武装蜂起し、いかれた都市に地下の底力を教えてやるべきだと豪語した。
とはいえ、興奮と熱気の嵐で結成された徒党は、そのどれもが血気に逸るだけの烏合の衆であり、首領も日替わりで、相手の裏の裏をかく算段がないがしろにされていた。地上に攻め入るも、元首の大号令を受けた百名の兵士達による散弾を浴び、度を失ってずらかるばかりだった。この討伐軍を率いる司令官は、金髪をなびかせ、重体の荒くれに乗り物の機体ごと体当たりし、砂の海への飛距離を味方と競い合った。
「幾らでも来い、屑共。存分に楽しませろ」
敗者達は砂に浸かり、翌朝には全身が壊死した。






