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2009年05月03日

髄の谷6

 老科学者の一派とその子孫は、樹皮の繊維から作られた衣服を着こなし、枝葉を組み立てて家を拵え、根や着生植物を編んだ梯子や吊り橋で大樹を繋ぎ、集落を築いたのだった。初めは平野や丘陵に棲家を築こうとしたが、野生動物の縄張りだったために締め出された。また、樹海の土壌は大半が水域で、迂闊に足を踏み入れれば溺れかねなかった。そこで、両足で渡り歩ける巨樹に住居を構えたのだった。
彼等は、樹海での飲み食いに困らなかった。根元が漬かる水は清涼で汲み上げて飲めたし、巨樹に巻きつくつる植物に熟れる果実を日干しにでき、手作りの弓矢や槍で狩った猿や水牛等の肉も同様に保存できた。

 都市がスラムに対して初勝利をあげた日、衣食住のすっかり安定した彼等は、馬に手を出した。食用ではなく、乗り物としてだった。樹海の地平が地上に比べて限りあるとはいえ、徒歩では一周するのに幾日もかかるだけの面積を持っていた。それに、未知なる食材に出会えるかもしれないという期待が、探索の欲求を日増しに募らせていた。
とはいえ、地球上の野生の一端が移植されたにすぎなかったので、珍味はもちろんのこと、彼等の知らない動植物などありはしなかった。そうであっても千里を駆けたい彼等だったが、乗馬への試みは常に失敗した。野生馬は人間を見かけるや囲い込み、その円周を狭め、跳ね飛ばして遊ぶのだった。

 樹海の民は、野生馬を一時断念することにした。こてんぱにされて意識不明の挑戦者達を、彼等は看取ることしかできなかった。外傷を治癒できる医術すら持ち合わせていなかったためであり、移住計画の本番が夜霧の捜索もあって唐突に訪れ、医療従事者を同志に加え損ねたという彼等自身の落ち度によるものでもあった。

 彼等は、滑落死が猿に比べ断然多いという理由もあって平均寿命の半減した人口を保つための討論を行い、つるべ落としで水源まで降りて土を採取し、生殖器をモチーフにしたデザインに打ち込み、完成した土器を掲げて踊った。そして、一夫多妻への抵抗を土器と共に叩き割った。子供の生まれる日がそうでない日よりも多くなった。子供達は、五歳で果物採りと水牛狩りを学び、十二歳で結婚して猿との格闘を知り、十六歳で親になり、三十歳を過ぎた頃には祖父母として子孫に見守られて息を引き取っていった。

 この民が住む木々の林床に留まっていた老科学者は、一片の意識の塊として、土くれと化した自らの傍にあった水溜りが数十本の幹を浸す池になるまでの月日を回想していた。

 立襟鞭毛虫を最小単位とした群体動物達の体内で、外界に接する細胞とそうでない細胞との間で消費できる酸素量に格差が生じ、それが群体の遺伝情報の転写・翻訳を刺激し、更に細胞の増殖や分化に参加する蛋白質のクロストークが活発に変更し、群体内での配属場所に応じて細胞の機能が専門化した。その結果、外側の細胞は頑丈な鞭毛を得たことで移動と採餌に寄与したが、内側の細胞は鞭毛を捨て新たな生化学反応の回路を編み出し、食物からのエネルギー生産に寄与するようになった。

 これらの二極化によって、肉親だった者同士が一球体の覇権を巡ってせめぎ合いを始めた。同種を複製できる細胞系列を確立し、大多数を占めれば勝ちという単純なルールに則っており、数で力の及ばなかった側の細胞系列は死に絶える筋書きだった。しかし、栄養を要求するだけの不定形な多細胞塊が頻繁に作られたため両者共倒れとなり、体力を消耗して力尽きた群体が水底に堆積した。人体でいう、悪性腫瘍が転移を重ねて全盛を極めても、宿主である個体の死と共に栄養の供給先を断たれて飢え死にする末路だった。

 ところが、彼等は腫瘍と同じ轍を踏んだのではなかった。少数だが、生き残った細胞系列同士で縄張りの折り合いがつき、異常な細胞塊は二極化の原因となったシグナルに殺され、以前とは桁外れの細胞数と体積を持つに至った。それから、鞭毛が分岐して繊毛となることで外界への対応が敏活になり、かつ表面の一部を体内に陥入させ、かつ対極に開通させて口と肛門が決定し、生じた管は食物消化と生体防御を司る腸管となった。残る体内の空洞は、個体存続の要となった腸管を支援する細胞や体液で過密になり、細胞同士で互いの接触が刺激となって接着や移動に関わる分子のレパートリーが急増し、これにより細胞間での同種と異種の識別が可能になり、細胞の集合体である各組織が機能を発揮できる形態をとるための収束と伸長が促進され、運動・捕食・消化・生体防御・栄養貯蓄・老廃物の排除・体形の維持に関与する組織等が、一つの閉鎖系で誕生した。

 こうして、立襟鞭毛虫の群体は、多細胞動物という一個体となった。

 鈴の形をしており、上端と下端を中心に生やした繊毛で浮沈し、プランクトンの密度の高い領域に漕ぎつけては口からの吸い込みにかかった。彼等は生殖専門の細胞を持たなかったが、体内の養分が充足すると、分化の可塑性に富んだ細胞を分裂させて増やし、これが瘤になると分離し、群体時代の中空のボールを再現し、表面の陥入に始まる細胞移動と各組織の区画化が一段落つくと、親のミニチュアが完成しているのだった。親の体の一部からの派生であり、実質的なクローンといえた。

 今、それらはすくすくと育ち、貪食と成熟を水域に充溢させていた。

 回想を一通り終えた老科学者の意識は、この鈴形が何らかの水生動物の幼生に近似した構造になろうとしているように思えてならず、成体としての将来があるとすれば、昔は殺し足りないくらい繁殖していた魚介類や節足動物の姿を得て樹海を席巻するのではないか、と考えていた。しかし、鈴形は彼の期待に反し、そのままでありつづけた。彼等の地位を脅かす対抗馬や天敵が現れなかったこと、季節不在の温暖にして湿潤な気候が水温等を変化させなかったこと、食物に逼迫しなかったことが、鈴形を停滞させた。変革を迫られなければ、無理に新形態を創る必要性はなかった。それに、遺伝情報は群体を卒業する時に総動員され、空き容量を残していなかった。したがって、仮に急性の環境変動に迫られて変異を得たとしても、生存に優位となる変身は見込めなかった。それどころか、今住んでいる淡水の塩濃度等に僅かな増減があっても、水面が死骸一色に染まりかねないという累卵の危機に立たされていた。

 老科学者の意識は、鈴形で飽和した池に対し、半ば変化を諦めかけていた。そのため、光射す樹海の上層を走り去る同志達の子供とその孫達に移り気になっていた。世代を経て要領を掴んだことで滑落死する者は減ったが、薬草による解毒や精がつくとされた食事による滋養強壮以外の医術はなく、早婚と多産を頑なに貫き、土器を掲げる自然崇拝に余念がなかった。そのための供物であるハチドリの狩りに、彼等は躍起になった。

 老科学者は、自らの移り気によってその博識を剥落させていたが、何者かが林冠部より突進してくるのを認めた。ここに光あれと環境論者に運び入れられた結晶の光を背に浴び、陸上を駆ける走法で、その者は向かってきた。月面宙返りをし、狭隘な樹間を横切る影を掴み取ると、山盛りとなった苔の上に着地した。三つ編みの黒髪といい、青銅色の肌といい、一派の血統には有り得ない突然変異の形質を持ち合わせていた。若者は、握り締めていた手を開いた。三羽のハチドリが、頚骨を折られて息絶えていた。樹海のハチドリは、古木に寄生する蔦が咲かす花の蜜を吸って生きていた。かつての鶏の肉と変わらない味ではあったが、残像としてしか姿を捉えられない素早さと樹木を一突きで穿つ鋭利な嘴が、樹海の民をして命を賭けるに値する珍味と言わしめていた。ハチドリを捕えた狩人は胴上げされ、子宝に恵まれるべき勇者とされた。特に、祝祭の日は一羽でも捕れば馬鹿騒ぎとなった。とはいえ、別の獲物を狙って遠くから矢を放った筈が偶然にも食事中のハチドリに命中しただけのことだった。そのハチドリを、若者は腰の籠に入れた。これで二十羽になっていた。しかし、彼の辣腕はそれだけに留まってはいなかった。若者は、猿をも腰にぶら下げていた。首を絞められて白目を向く三体はいずれも大型の雄で、多勢で挑んでも勝ち目のない怪力の持ち主だった。老科学者の意識は、貧弱になった言語能力で、去らないうちにその立ち姿に相応しい名を贈ろうと知恵を振り絞った。その間、若者は、意識が滞在する池のほとりに獲物でも人間でもない気配を察し、その場から動こうとしなかった。だが、仲間の口笛を聴き取ると、顔を上げ、幹を疾駆して林冠へと去った。その時の若者の汗の飛散が、彼自身の肌の青銅色も相まって、晴れた夜空の星屑として、意識を蹂躙した。

 老科学者の意識は閃き、渾身の贈り名を、若者のいる高所まで打ち上げた。

 若者は、その夜の酒宴で狩人の雄偉を讃える歌を熱唱し、自生の麦を発酵させた酒を飲み、妻達と交わって楽しんだ。老科学者の意識から贈られた名前は、贈られる以前から彼の肉体に馴染んでいた。集落の人々は、彼の狩猟の腕前と人間離れした身体能力を認め、そう呼ばれるに相応しいと親しみを込め、綺羅星と呼んでいた。

 綺羅星は夜明けと共に起床すると、水袋と食糧を背負い袋に詰め、木の槍を片手に持ち、大樹のてっぺんに登り、片爪先だけで枝の先端に立ち、放物線を描いて林冠を跳躍した。そして、森の終点を背にすると同時に、彼は水牛の毛皮を縫い合わせたローブをはだけさせた。空気抵抗を受けたローブは水牛のうろつく湿原を越え、目的地まで彼を運んだ。木製の矢倉の展望台から、同志である砦の守り人が旗を振った。綺羅星は速度を緩め、着地した。木道がそこから遥か上へと通じていた。

「どうしても、行くのだね」

「最早避けては通れまい」

「危なくなったら、何時でも帰って来い。健闘を祈る」

 綺羅星は、木道を登っていった。何十回もの時計回りの末、辿り着いた半開きの門をくぐると、そこは行き止まりだった。バリケードが閉鎖され、解除用のスイッチは配線を切られて使い物にならなかった。綺羅星は、松明に火を点けてバリケードを照らすと、脚力のみで踏破した。防壁としてのバリケードは対空の防護にまで及んでおらず、残りのバリケードも越えられ、そのままスロープを駆け登った。

 地下街が安全策として独自に設けた防壁が突破された。見回り役の兵士が、部外者の侵入を告げる叫び声をあげた。急峻な絶壁に繰り抜かれた窓という窓から、武装兵士が石の弾を撃つ機関銃を綺羅星に定めた。まもなく、掃射が標的に襲いかかった。彼は岩盤と空中を跳ね回って全弾をかわしたが、着地して息を整えた一瞬、別の武装兵士達による刀剣が覆い被さり、身動きを封じられた。部隊を率いる隊長が、武器を捨てろと言った。綺羅星は、近親相姦で子供達の多くが発育をおかしくして死んでいくのを、これ以上見過ごせなかった。彼は、木の槍を膝で折って捨てた。

 綺羅星は交戦の意思がないことを口答で伝え、友好関係を結びたいと言った。生け捕りにされた彼は、地下街の指導者の前に突き出された。白髪を伸ばし放題にした老人が、綺羅星の眼差しを一目見て、彼の想いを見抜いた。そして、隊長から身体能力とそれが繰り出す技量について報告を受けると、友好条約締結の条件として都市に対抗できる戦力となることを提示した。都市と言われ、この地下世界に別の社会集団があるのかと綺羅星は勘違いした。しかし、首長の口から、生命工学のレールからあぶれてスラムに下り、拾い読みした手記で一念発起して地下街に飛び込むも目的の谷の在り処の検討すらつけられず、手を拱いて滞在するうちに、荒くれ達に物事の分別のつけ方から教育を施すようになり、武力闘争の手法について知恵を絞り、気づいた時には信頼と支持を得て最高責任者として地下街に尽くしていた歳月が語られたことで、彼は地上と都市の定義を知った。

 締結後、鍛冶職人が、腕によりをかけて鋳造した秘蔵っ子を使ってみないか、と綺羅星を倉庫に案内した。その穴蔵には、棍棒、モーニングスター、日本刀、三つ又の矛、鋼の爪、トンファー等が区分けもされずに立てかけられていた。どの武器も精巧かつ頑丈だったが、綺羅星には手に取るだけで物足りなさが込み上げた。殺人は未経験だったものの、猿やハチドリの狩猟経験からそう思えた。また、兵士達の携帯する機関銃は論外だった。彼の動体視力は弾道をたやすく見切れていたし、ハチドリ相手の方がまだやりがいを感じられた。

 鍛冶職人が、明かりを行き止まりの窪みに照らした。二メートル強ある漆黒の杖に、鋼の三日月が鎌首をもたげていた。同伴していた首長は、これが秘蔵っ子だ、きっと死に神の異名をとれるだろう、と微笑み、そのためにも明日から修練を始めるように勧めた。必殺の武器を自由自在に使いこなせるようになれば、都市の愚者共から地下街の秩序を共に守りきれるし、お前の部族に未来の開ける日も来るだろう。





posted by ロスジェネ at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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