僕はホテルから着古された従業員の服を買い、空港に向かった。X線でも特定不可能だった戦利品は著名なアーティストの畢生の大作なのだと無理を押し通し、空の安全の道理を引っ込めさせた。その後も、搭乗した瞬間から乗客による鼻を摘んでの白眼視に耐え忍び、入国審査でもその後の電車の中でも、大衆の注目の的となり、あっち行けの手振りと嫌味で歓迎され、蹴り出される途中下車も余儀なくされ、警察官の職務質問にまで応じたのだった。パスポートを開いて自己紹介をしても真偽の照合ができないということで拘留となり、全身の毛を剃って人相を正してもなお尋問され、釈放されて賃貸アパートに帰宅できたのは、帰国後一ヶ月近くも経ってからだった。
しかし、これらの災難は小事ですらなかった。一大事とすべきは、家路までの最後の各駅停車で、世間話の好きな事務員のオールドミスの発言によって発覚した一件だ。
「先生、うちみたいな馬鹿大学にも、他大学のような春が来ますね」
「まさか・・・・・・就職率一パーセントにして性感染症経験者数だけは順調に百パーセントに届こうとしている我が校で、そんな理屈に合わない奇跡などあるわけ・・・・・・」
「あら、先生、おとぼけになるのも程々にしていただかないと」
「はて、私が何かとぼけているとでも?」
「もう、先生ったら、そこまで演技なさるなんて・・・・・・来月で新設の科学館の館長に就任されるではありませんか・・・・・・それも、名誉教授の称号付きで!」
そんな馬鹿な、と思った。忘れはしない。学生への温厚篤実な教育指導が学内外より好評を博しただとか、淡水産ヒドロクラゲの新種や新属を分類した研究成果が官庁の審査で激賞されたとか、でっちあげが丸見えの推薦理由をうんざりするほど聞かされてきた。確かに実践してきたが、脚光を浴びた憶えなど一度としてない。卒論募集は毎年ゼロで、メディアの取材を受けたこともなく、大卒者の初任給程度の研究費で生き抜いてきた窓際教授の僕に、本来なら目を向ける時間すら勿体無い筈だった。そんな誉め殺しは芸能文化人に格上げされたがっている花形研究者達にでもすればどうかと、官僚達を何度も追い返してきたというのに、出張中の本人の承諾もなく決定されたというわけだ。
そして、決定された事項がもう一つあることを、僕は理解しなくてはならなかった。死を賭したこれまでのフィールドワークが無に帰した、ということだ。大学を去る以上、本業に時間を確保できることはもうない。そして、僕の今後の人生を確保することとなった科学館への共感度は、絶無だ。キャッチフレーズからして、話にならない。血税十兆円に見合うとは到底思えない、戯言の羅列だ。
科学から科楽への市民革命を・・・・・・人類の未来を想う正義のヒーロー、その名はサイエンティスト・・・・・・砕け散れ象牙の塔、無垢なる庶民の声に誠実たれ・・・・・・詰め込み主義の悪魔と闘い勝利せよ子供達!清く正しく独創性の豊かな真の大人になるために・・・・・・こんな具合だった。これ以外にもあったと思うが、どれもが中学校の文化祭ですら採用の有り得ない代物だった。
ちなみに、僕を説得すべくしつこく訪れた官僚の持論は、こうだ。理数系の人材不足が長引けば、外国の成果のお零れに物乞いするだけの、世界きっての知的最貧国となるだろう。それをいち早く防止するには、幼少より科学を親ませ、理科好きに育成するための装置が必須であり、貴方はそのための救国の架け橋となってもらいたい。
我が校の分数のできない大学生でも、歴史の教科書を一読すればわかることと個人的には認識しているが、こういった発想こそが、無能な愚者を台頭させることとなる。外見上は市民に優しくわかりやすい科学の浸透を謳いながらも、自らの権力を維持すべく、密告、凶弾、拉致、監禁、拷問、粛清、画一化、といった共産主義のキーワードの信奉へと傾倒し、気がつけば科学自身が政治思想に隷属した凶器へと堕落していた、などという末路を辿るのだ。
その初期段階が既に完了されているのを、出勤一日目で思い知る。僕の研究室は総務部の備品置き場と化し、蒐集してきた希少な書籍や専門誌そして標本が廃棄処分となった旨を仏頂面をした新任の総務部長より聞かされ、定例の教授会には呼ばれず、開講される筈の授業はシラバスから除外され、学生食堂で緑茶を啜るだけの一日を過ごすことになったのだ。
一人茶会を催して自宅に戻るというぼんくら学生並みに退屈な七日間を過ごしたが、ようやくめりはりが訪れる。公務に属する者のえげつなさには、つくづく舌を巻いてしまう。アパートの鍵が勝手に開けられており、警察官の立会いの下で私財が没収されているのだ。専属秘書の肩書きとして、最後のもう七日間を共に過ごすという見張りが、蒲団だけを残して広くなった三畳一間に居座り、自己紹介の挨拶をしてくる。僕はそいつを追い出すどころか、自ら逃げ出すことすら不可能だ。男は眠っている時ですら、引き金の絞られた拳銃を僕に向けている。照準は片時もぶれることはない。
官僚機構は僕を社会的に消去する段階へと手筈を整えたつもりでいるのだろうか。しかし、こちらも緑茶を啜ってたそがれてばかりいたわけではない。自由な七日間があって、良かった。社会人経験が欠落しているとはいえ、ここぞという時の悪知恵くらいは、トップセールスの伝説を誇る各業界の営業マン達に負けじと働かせられる。そう自負している。
公務員達は、出張先では採集を果たせず寿命を縮めただけに終わったという僕の回答をまんまと信用し、家宅捜索後も証拠が見つからなかったため、虚偽はないとした。火口湖で獲得した戦利品は、既に、とある若者に託してある。
今でも、初めて会った一年前を思い出す。週末のジョギング後の柔軟体操を、近所の河川敷でやっていた時のことだった。景気の落ち込みに反比例して激増した無宿人達が焚き火で賑わう中、焼けた肉の串刺しを彼等に手渡す黒尽くめと視線が合ってしまったのが、始まりだった。ただそれだけで、心と血の波長が凄まじく同調するのがわかった。妊娠三ヶ月目に赤の他人となって今も慰謝料と養育費を請求しつづける前妻との間に生まれた息子に相違ない、という直感まで得た。
その日の晩、引き渡しを快諾した彼に、採るべき進路、すなわち、自らに課した使命を果たすために真の故郷へと回帰する思いを語った。彼は、この将来設計に賛同してくれた。
だが、拘束されている今、それもしばらくの間お預けだ。拍手と歓談で馬鹿に賑わう祝賀パーティーの会場から鉄窓付きの黒塗り乗用車までの数メートルを、喪服姿の公務員に挿まれて歩かされている。
乗車するや否や、手錠がかかる。
工事中の通行止めの立て札を無視して人工島へと渡った所で、寡黙でありつづけていた助手席の法衣の男が、口を開く。未記載の希少生物の生活環を解き明かすという研究テーマは、市場の優勝劣敗の形勢が日替わりで流動し、大多数の市民が切歯扼腕して激務に励んでも自刃による締め括りを免れ得ない現代にあっては、百歩譲っても浮世離れした偉人気取りの自己陶酔でしかなく、未来の子供達には学びの意欲への悪弊でしかない。それに、保護者にしてみれば、給料泥棒だ。自己陶酔のために半端ではない授業料を支払うわけにはいかないからな。したがって、シルバーアースの館長としての無給の奉仕を、今までの所業の罪滅ぼしとするがいい。汗水流して働いて死ぬことで、人様に償うのだ。
橋を渡り終えてからしつこく建ち並びつづけた鏡張りの高層ビルが何時の間にか終わり、国益の総本山と目された研究機構の組織名が掲げられたアーチ状建築物を潜り抜け、流刑地がお目見えとなる。黒塗りの乗用車や金網付きのバスが、鏡張りの巨星の前に続々と到着している。僕は正門前の広場で、先着の拘束された者達と一箇所に集められ、銃声で威嚇され、猿ぐつわを強制される。陪審員の方々との口論の末に私刑に処されないように、という大先生からのご慈愛だ。血税が無駄にならないよう大事に扱え、罪人共。さあ、もたもたするな。二列になって入っていけ。
正門の自動ドアが開かれるや、爆音めいた罵声が、館外にまで殴りかかってくる。次々とくぐり抜けていき、僕の通過する出番になる。赤ベストを着た連中が怒声をぶちまけ、虚ろな目をしてこちらを睨み、二列になってぞろぞろと歩く僕等を左右から打ち据えにかかる。前後の人間が盾になるようにタイミング良く身をかがめて進みつつ、その判決の数々を聴き取る。何のことはない。近年の理数系への進学者数激減は暗記至上主義の入試制度そして偏差値だけで人生の幸福を計測できると信じた教育関係者のまぬけさのせいである、とか、お前等みたいな専門用語を濫用して自己愛に冒された専門馬鹿がオカルトにときめいて無差別殺人を実行するのだ、とかいった苦情が数限りないが、個人的な挫折体験や私怨を大袈裟に語って鬱憤のはけ口としているだけのことで、聴きつづける価値はない。
そう見切っていた矢先、憤慨しまくっていた赤ベストの一人が、僕の前の老女をぶった斬ってしまう。彼女が頚動脈からの大量出血を来たし、絶叫して卒倒すると、加害者はカッターナイフを振り上げて市民革命の幕開けだと絶叫し、数名の赤ベスト達が彼女を踏みつけに加わる。掛け声と共に、床に飛沫が広がる。愚直な市民階級に祝福を、据傲な知識階級に天誅を。進めば進むほど、詠唱される標語と狂気は過熱化し、さすがに無傷では済まされなくなってくる。囚人達を素材とした床のデコレーションが、着実に増えていく。
前触れもなく死刑が執行される阿鼻叫喚のエントランスの行進が終わり、非常階段を延々と上らされ、会議室に閉じ込められる。僕も含め、ほとんどの人間が憎悪満載の暴行で負傷し、犠牲者の流血を靴の裏に染み込ませている。僕等は、屋外に集められた数時間前の半数にも満たない。
壁面が突然白み、スクリーンとなる。貴様らとは桁違いの高潔さと心温かさに満ちた大先生による訓話だ、命の限り崇拝し、細大漏らさず聴くように、と監視役の赤ベストが木刀をぶん回してどやしつける。彼等が神に祈りを捧げるように手を組んで跪くので、僕も猿真似をしてやる。神格化の対象は、贅肉が椅子からはみ出した、シミだらけの老醜だ。僕は彼の研究分野の門外漢だが、彼自身の略歴くらいは知っている。話し言葉だけで生命科学のトピックスを論じた軽薄な啓蒙書で印税を荒稼ぎし、教育テレビやクイズ番組ではお茶目なプチタレントを演じ、その他の数知れぬ副収入で納税額は国内で五指に入るという大脳生理学の重鎮は、現在は地球以外の惑星に住むであろう泡沫状生命体の同定に首っ丈とのことで、〈宇宙屋〉という渾名がついていた。この〈宇宙屋〉は、のろのろとした口調で、エントランスの行進を生き抜いた各人の経歴を諳んじ、棘のある雑感を述べていく。そして、僕に対しては、こうだ。君は愉快な人だ。でも、野山を駆け回らずとも、富を稼ぎ出せる未知の鉱脈が横溢としていることくらい、わからなければ。君は日本人であって、ブッシュマンではないのだから。
全員分が終わってから、今現在の殉職者の氏名と前職が列挙され、やはりそうなのか、と敵愾心が湧く。基礎研究に精通した者達、特に、自然史や博物学に絡んだ者達が、全国から収容されている。それも、今日が初めてではない。前日も、その前の週も、その前の月も、だ。そういえば、死体のなかった床にも、黴か何かの痕跡が目立っていたように思う。
猿ぐつわと手錠を外されると、僕等は先輩の館長達と合流し、案内パンフレットの束が積まれた机の前に蹴り出される。要領を得ない説明では、ロゴマークのシールを所定の位置に貼っていくだけの単純作業だが、ささいな誤りが発覚した時点で、見回りによる木刀や鉄パイプの根性焼きを頂戴することになるという。シールを逆さに貼るような不注意をこの環境でやらかす者がいるとは、とても思えないが。
実際の彼等は、エントランス以上の狂犬ぶりを発揮してくれる。現実社会では無給のボランティアでありかつ現金収入の当てがない住所不定無職の身であることへの不平を呟きながら、顔面目掛けて武器を振り下ろす。ただし、その私刑の規模はミスの程度や回数ではなく、彼等の機嫌如何によって決まるようだ。防御は禁じられていないため、丸く蹲って傷害を最小限に抑えるようにするが、学会で顔なじみだった知己に至っては、シールの貼る位置が所定の場所から若干ずれていたことで別室に連れ出され、戻された時には虫の息となり、自ら寝返りを打つことすらできない。
知己の他界した夜が明けると、僕等は正門前に集められ、ラジオ体操と科学館のテーマソングの斉唱をやらされてから、墳墓の形をした芝生の丘に連れられる。そこには古書の山がある他、数組の人間の足が突き出ている。回収された知己も入っていよう。法衣の男が現れ、キャンプファイヤーを執り行うと宣言する。赤ベスト達が、油を注いで火を点け、肩を組み合って〈宇宙屋〉を褒め称える標語を張り上げる。
一人また一人と撲殺される日が過ぎて、シール貼り待ちの束がついになくなり、屋上に連れ出される。伸縮性のゴム糸を腰に巻かされ、その端が手摺りに結びつけられる。下へ下へと磨いていけ、大先生への感謝を込めて、市民への償いを込めて、丁寧にな、と担当者の赤ベストが鞭を振るう。鏡と鏡の間隙に手摺りが取り付けられているので、気休め以下の命綱がなくてもこなせそうに思うが、実際にやってみると、なかなかの高度感だ。ある者は、泣き喚かずに精を出せと地上の赤ベストからモデルガンの戒めを受けて血塗れになり、またある者は威嚇の狙い撃ちに取り乱し、自らゴムを断ち切って転落死する。
慢性的な人手不足で新入りが続々とやって来るうちに、当初からの顔見知りが誰もいなくなる。そろそろ人事異動があるのではないか、と僕は思う。古株にはさっさと退職してもらうべく、より死にやすい業務をやらせるに違いない。手慣れてしまった僕を、この業務ではもう殺せない。
ところで、この部署では思わぬ収穫を得られた。大まかだが、地理を把握できた。大橋の真下にある建設中の公園から本土までの間には、幾つかの小島が並列している。鉄柵に囲まれた未完成の人工林に身を隠し、残りの数十メートルであろう距離を一気に泳いで詰め、対岸の倉庫の林立に紛れるというのはどうか。ただし、この思いつきが、人員過剰な赤ベストの無職者集団の殺意にひしめくシルバーアースから脱獄するための最適な方策だとは言い切れない。脱獄の序盤で取り押さえられて終わりだ。大地震等の天変地異が前触れもなく起こって監視の目が緩めば、話は別だろうが。
そんな考え事を寝酒にしてまどろんでいると、生き残りの館長達の呻くような鼾も、遠のいてしまう。だが、今夜は変に眩しくて、堕ちていけない。夜はまだ長い筈なのだが。睡魔が薄れ、起きてしまう。警報が鳴り響き、防衛部隊を出動させるよう防災センターに連絡をとれ、と悲鳴混じりの指示が聞こえる。同時に、襟首を掴まれ、さっさと部屋を出ろ、火の海だというのがわからないのか糞爺め、と罵倒される。死人同然の形相をした赤ベストが、僕を引き摺る。ガラス張りの共同寝室には炎の渦が巻き上がり、咳き込みながら人の寝姿を消化している。わざとらしく、命を助けてくれた礼を言うと、そいつは蒼白の面構えで言う。貴様等の往生際の悪さのせいだ。おかげで大先生の威光が傷物になってしまった。死んで詫びてもらおう。笑いを堪えるのが、つらい。こいつは肩で息をするばかりで、全身が震えっぱなしの馬鹿者というのもそうだが、願い事を叶えられる今が信じられないという方が、正しい。実物は未経験なのだろう。僕は体当たりで相手の体勢を崩し、そいつが落とした小銃を拾い上げる。相手の極度の強張りが、理解できる。重い。モデルガンなどではない。殺されたくなければ出口を案内しろ、と脅す。当然、好機は逃さない。彼は、仰向けにぶっ倒れて、血溜まりになる。
出合い頭に何人も仕留めていくうちに、渡りきれない爆傷に突き当たる。火の手が僅かなそこに飛び降り、着地する。古書と殉職者を灰にした火葬場の祭壇だ。遠くからの銃撃が聴き取れる。脱獄の先駆者達を制圧しつつあるのだろうか。だが、こちらには好都合だ。幸いにも、行くべき方角から離れている。無人高層建築の影を被った道路を道なりに走っていけば、活路はすぐ目の前の筈だ。行く先が手薄以下であることを、期待するとしよう。






