昨晩、あいつから譲り受けた立方体は、室内に置けそうな空間が見つからなかったので、ダンボールの包装だけ解いてベランダの台に置いていたが、明朝、眠気覚ましにベランダに出てみれば、台の上が真夜中の電飾みたいにきらきらしている。よくよく見ると、純白の水草が朝日の直射を受けて開花しているのだ。元は華やかな枝振りだったが、寿命が尽きてしまい、まだ成長が見込めそうな若い枝の先端部だけを植え替え、今日に至っている。そう昨晩のあいつは説明していた。切り口や砂利の分量等を考慮して初めて定着してくれたという数株の苗は、どれもが昨晩までは鳥の嘴のような蕾を際立たせていたが、その形は失われ、半透明の珠が飛び出して震えている。日の入りが終わると共に珠は窄み、それらの肉厚で隠れていた外皮がしゃんとして互いに接ぎ合わさり、嘴の形に帰る。
果たして、私は何を飼育し始めたのだろう。
夕闇の松原で苗達の正体について思いを巡らせていると、あいつが現われ、私の話を聞くと、手持ちの木箱を開け、使ってみないか、と言う。ガラスシャーレ、柄付きの針、ピペット、メス、ピンセット等の小道具と拡大鏡が収納されている。
「好きな時に、好きなだけ使ってみればいい。楽しみにしている」
命数が定まっているとはいえ、さんざん回り道をして今日を勝ち取った身だ。ありがたく頂戴する。大学受験時にこちらの分野に憧れて挑んだが当時の年齢とさほど変わらない偏差値が元で玉砕し、それから十年、おおまかな流れすらも思い出したくないが、不特定多数との交わりやいかがわしい映像作品の出演で荒稼ぎをしてきた。今いる分譲の4LDKは、その怱忙を極めた旬の時期に稼いだ現金収入で、一括払いで購入したものだが、それでも白髪が生えるまで働くことはない。そこまで生きられるとは思わないけれど。
苗達をつぶさに眺めていくうちに、肉食であることがわかった。幼少の頃、従兄弟の家の池に肉の凍結粉末をばらまくと観賞魚が暴れだしたのを思い出し、あいつの教え通りに、水が濁れば真水を交換すればいい、と思ってやった。苗達は、晴れた日は余さず貪り、瑞々しい宝玉を満開させてくれるが、身の丈が食欲に比例しない。
その原因についてはわかりもしないが、できる限りこの日々を長続きさせたいという思いは観賞する度に強まり、延命ジュースを自ら拵えるようになる。考えつくだけの野菜を買い、細かく刻み、スポーツドリンクを注いでミキサーにかけ、飲み干すのだ。最初は気休めだったが、一月近くも続けて習慣化すると、身動きが軽快に感じられるようになる。買出しのために隣町のスーパーマーケットに通じる川沿いの街道を歩いていても、シューズが地面に空気を叩きつけているのかと疑えるまでになる。あっという間に、街道の終点の橋に差し掛かる。
その橋に、黒山の人だかりができている。平日だというのに、働き盛りの年頃の男達が騒ぎたて、女々しくさえある。人だかりに顔を割り込ませると、腐臭のこもった固形物が、蝿の群の宴会場となっている。以前、とある隻眼のホームレスが、面識もない私に、尋ねてもいないのに、アルコールとタールの吐息を撒き散らしながら語ったことがあった。川の主というのが古くからいて、その主権は血縁に依存することなく、力ある他者から他者へと受け継がれてきたのだ、どうだ、知らないだろう、と。その力の一部が、この粥状の変死体なのだろうか。そいつの眼帯が溺れているが。
この事件は公に報道されることはなく、真夏日に負けじとした強烈な日差しがベランダに降り注ぐ梅雨入りが訪れる。饅頭っぽい半透明な珠が光輝を放っているが、苗達ではない。多肢の小動物がアクアリウムを行き来し、ガラスの壁に張り付いているのだ。おおざっぱに見れば頭でっかちな円錐形でしかないが、珠に疎らな体毛が付加され、茎の節々に肢が追加されて生まれたようにも見える。事実、苗の幾つかが、引きちぎられたような傷跡を残して姿を消している。
私はデジカメに撮影し、雑記帳を持ち出して写生する。しかし、それでは物足らなくなり、あいつからもらった小道具の木箱を開ける。泳いでいる一匹をピペットに吸い込み、ガラスシャーレに吐いて隔離する。そして、一つ自分なりに試してみる。初めに過食させ、次に絶食させるのだ。摂食の結果として固着した植物形態から遊泳できる動物形態が生まれたのなら、この多足の円錐虫も栄養を得て、更なる変身を遂げられるのではないか。
実際、初めの七日間を飽食とすると、全身が弛んで扁平になり、葉状の仮足を底面に吸着させ、体表面にわんさとした繊毛を波打たせるようになり、餌や糞が引き寄せられていった。次の七日間を断食させると、全身が引き締まり、頭部と多肢と体節が復元され、円錐虫が復活した。
私は毎日長時間ベランダにこもるようになり、ただならぬ日差しと暑さに煽られ、背中のみならず下腹部までも濡れる肌着に慣れ親しむようになる。濡れ雑巾の要領で絞ってみると、まとまった水として流れていくのだ。この発汗を人並みに抑える処方箋は、誰も持ってはいない。かつての担当医の診察通り、免疫細胞を壊滅させ、肺炎や肉腫を併発させる不治の性病の中盤戦なのだと思うしかない。
久しく聞いていないエコーが、耳に届く。
インターホンが鳴っているのだ。
受話器から、裏返った男性の声が聞こえてくる。ご提案を聞いてほしいそうだ。しかし、エントランスを映す画面は真っ暗なままだ。既に玄関前から鳴らしているということになる。居留守を押し通すが、夕方になっても数十分おきに鳴らしつづけるので、そのしつこさに頭に来て、入れてやる。その男は、他の方にもお配りしていますので、と機関誌を出し、汗みずくのまま用件を話し始める。開館して二十年目になる閑古鳥の科学館に新風を巻き起こしたいのです。そこで、斬新なアイディアを是非ご提供していただきたいのですが・・・・・・お宅のひょっとこみたいな顔で客引きできるのではないか、と逆提案してやるが、男は引き下がらない。私の醜い顔なんか一銭にもなりやしません・・・・・・ところで、ほら、あのベランダに一風変わった生き物がいるようですが、あれなんかはどうでしょう。
話し始めた時から、眼球運動を休めることなく、アクアリウムをちらちらと見つづけていたのはわかっている。それに、こちらからのエントランスの開錠もなく、別の居住者の出入りに乗じて入って来たことも踏まえれば、非礼千万と言う他ない。
用は済んだろうからさっさと帰れ、と言う。ひょっとこ面の男は口をとがらせたまま、だだをこねるように反論する。そこを何とかお願いしますよ、貴方に代わるブレーンなど私には考えられないのですから。だが、無防備で異性を迎え入れたわけではない。腕力に物を言わせるのなら自信はあるし、その気になれば恐喝や通り魔だっていける。遠回りをしていた頃、夜道を襲われた時にその才能を知った。
鳩尾と急所に一撃を叩き込まれた男は、胴間声をあげて崩れ落ちる。
珍客を運び込んだ松原は、夜目に慣れていなければ風通しの良い暗闇でしかない。ただし、慣れさえすれば、松の枝に座って月見をしているあいつを見つけられる。初めての出会いの時も、あいつはそうしていた。
そして、今も、そうしている。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「久しぶりだな・・・・・・おや、そいつは?」
「不審者。謎のセールスマン」
「・・・・・・そいつ、置きなよ」
あいつは跳躍し、棍を振りかざして烈風を繰り出す。うつ伏せに置かれた男の背広が切り裂かれ、刺青がさらけ出される。何処かの惑星をモチーフにしたらしい幾何学的なデザインが、月光を受けて真紅に色めき立つ。
「こいつは俺が始末する。見知らぬ人には、くれぐれも気をつけな」
あいつは、セールスマンを担ぎ上げ、ボートへと飛び移る。そして、川面を裂いて、鉄橋の架かる下流へと小さくなっていく。満月の光が届いているが、彼とボートだけが夜よりも暗く見えた。






