その日から、ノートの黙読が日課になった。
開く度に、読書時間は長くなっていった。しかし、何度読んでも表紙の裏にある走り書きだけが解読できなかった。ただの傷跡にしか見えなかった。
しかし、距離を置いて見直してみると、アルファベットの筆跡が浮かび上がった。Hybridであり、Hydraだった。前者は雑種を意味し、後者は腔腸動物のヒドラのことだった。
青年は、この二つの単語にはミミズと何らかの関わりがあるのだろう、でなければわざわざ書き残す必要はない、と考えた。
数日後、青年は、大学ノートの裏表紙の硬さに違和感を覚え、紙面を撫で回すうちに、地図の藪からバラックまでが
貼り付けられた厚紙であるのを発見した。それを、爪を立てて剥がした。大学ノートの字体で、二つの固有名詞とその電話番号が書かれていた。
青年は、聞き覚えのあるR.Shizunaiに電話をかけたが電波が届かないとのことだったので、KAMOMEに電話をかけた。
出てきたのは、成人男性だった。とある半島近辺の港町にある個人経営の喫茶店で、ネットサーフィンが売りとのことだった。青年は、住所と最寄りの駅からの交通手段および建物の特徴等を教えてもらった。
その週の土曜日、青年は最寄りの駅から路線バスに乗り、人気のない海浜公園で下車した。海岸沿いの道路を歩いていくと、螺旋階段のある建物が見えてきた。青年はその階段を上り、Welcome to KAMOME≠ニ書かれた板がぶら下げられたドアを開けた。
エプロンをかけた中年男が、いらっしゃいませ、とカウンターから挨拶してきた。
「よく来られましたね」
「海を眺めるのもたまにはいいかな、と思いまして」
青年は、正面のカウンター席に座り、店内を見回した。体中を
ピアスで飾ったスキンヘッドの男、長髪を虹色に染めた男女、背中に性器の刺青を施した若者、そして、女性とも男性とも見分けのつかぬ服装をした青少年が、マウスを操っていた。
「見ての通り、ネットサーフィンは当店の売りなんですよ」
「しかし、
マスター、この人達は…」
「不気味でしょう、見ているだけで。でも、遊びではないんですよ」
彼等なりに、自分の居場所を探し、自分自身の命を燃やそうと模索している最中であり、そうしなければ何をやってもうまくいかないことを彼等は理解している、とマスターは言った。青年は、そんなことより、話を切り出したかった。
マスターが、口を開いた。
「そういえば、昔、ここで
ユニークなことをしていた若者がいましたね」
青年は、もし良かったら教えてほしい、と早口で求めた。
その若者は、英国の科学者が著したという洋書をいつも片手に持ち歩き、ウニとホヤのハイブリッドを創造してみせると公言し、雨の日も風の日も地底海岸に通って飼育し、実験をしぶとく続けて成功を修めたが、今から一年前に、長期のアルバイトにありつき、旅立ったとのことだった。
ウニとホヤのハイブリッドなど、青年は一度も聞いたことがなかった。
「それは、今も生きているのですか?」
マスターは青年の問いには答えず、エプロンのポケットから鍵を
取り出し、客席に挟まれた通路の奥にあるドアを開け、机の上に置かれていた営業鞄のナンバー
ロックを解除すると、ドアを閉めて退室した。
鞄の中で束となっていた印刷用紙には、雑種形成と種の多様化に関する理論が、海産の無脊椎動物の幼生と成体の形態から得られた知見を基に、展開されていた。青年は、何度も眠気に耐えられなくなって紙束を投げ捨てたくなったが、その度に持ち前の好奇心で睡魔を払い除け、この専門書の抜粋の貼り合わせを読み進め、問題の実験の章に到達した。
…博士は、ナツメボヤとヨーロッパホンウニの雑種形成を試みた。ナツメボヤの卵をヨーロッパホンウニの精子で受精させたところ、後者の幼生であるプルテウス幼生にまで発生した雑種二千個体の中で、変態を遂げたのは僅か二十個体のみであった。これを水槽で一年間飼育したところ、四個体がウニとして生存していた。
…しかし、プルテウス幼生の段階で発生の止まった大部分の雑種幼生には、異変が見られた。片側の腕足だけが少しずつ退縮し、左右非対称な体形になった後、プルテウス幼生よりも小さな球体になり、その球体から突起が生じ、ナツメボヤのオタマジャクシ幼生から尾を切除した格好になった。この幼生は、泳いで水槽の壁に付着できるが、成長も変態もすることなくそのままの形で死亡したため、その後の発生の進行については未だに観察できていない…
青年は、この幼生のその後について、書き手の自説が何処かに記述されているのではないか、と考えた。発生の運命が未知ならば、探究者としての仮説の一つや二つは提示されてもおかしくない、と思われたからだった。しかし、今後の研究課題や科学者自身による新たな分類体系の提案が続くばかりだったので、彼は長文を斜め読みしていった。
その後、書き手の行った実験の記録を走り書きで構わないから読みたいと願って束の紙を捲っていると、参考文献の網羅された最後のページの裏に、手書きが見つかった。とはいえ、水性インクが滲んで墨絵のようになったのが大部分だったので、文章として読めたのは僅かだった。
…そいつらは、一ヶ所に蹲っていた。数匹だけ岩陰へと隠れたが、大多数は動く気配すら見せなかった。俺は、息を殺して顔を近づけた。
そいつらは、一見ホヤのオタマジャクシ幼生のようだが、楕円球の胴体がフジツボの外殻で覆われた格好をしていた。その両体側には硬骨魚類の鰓が揃い、甲殻類のノー
プリウス幼生の持つ肢二対で踏ん張っていた。口は特定できなかったが、目と思しき一対の球体が光を発していた。また、ホヤのオタマジャクシ幼生は単体節であるのに、そいつらはミミズやゴカイが持つような多体節を尾に備えていた。そして、杉の木のような形をした一対の器官が胴体からそそり立ち、前後に微動していた。
…実験時の海水に対象外の動物の精子や卵が混入し、結果として多精による受精が行なわれたのかもしれない。
俺は、早々と立ち去るべきだった。しかし、そいつらに見入ったまま、考察の世界に没入してしまった。
…それがいけなかった。奴等は飛翔し、空襲を仕掛けてきた。一匹が俺の肩に吸い付いた。ただごとではない吸引力に焦り、何度も殴って外した。俺はそいつを投げ捨て、岸を目指して泳いだ…
青年は、別のページの裏に、雑種幼生の漫画が描かれているのを見つけた。
棘、角、羽、甲羅、そして爪の長い手足を備えたオタマジャクシだった。
営業鞄の中には、この束の他に一冊の本が入っていた。表紙には、プルテウス幼生の
写真が載っていた。本の前付けのページには、「ナツメボヤの卵とヨーロッパホンウニの精子から生まれた雑種幼生」と注釈が記されていた。八本の管足を持つ、ごく普通のプルテウス幼生だった。
青年は、この本を捲り、実験で作られた雑種幼生の個体発生について描かれた絵を見つけた。一つは普通のウニに、もう一つは球体へと育つ流れ図が描かれていた。後者は、あのオタマジャクシ幼生へと変態するのだろうか。彼は、頬を火照らせて見入った。
青年はカウンターに戻り、雑種幼生の居場所までの道順をマスターに訊いた。
マスターは、拒んだ。死者を出したくないという本音が、さらけ出された。
青年は、引き下がらなかった。ユニークな生物に魅せられて、暇さえあれば関連の文献や古書を集めてきた身で、生き物への探究は唯一無二のライフワークなのだ、と主張して諦めなかった。
マスターは、過去にも生命の探究こそ我が魂と言い張って地底海岸に挑んだが、失禁して逃げ帰った小犬みたいな面構えの若者がいたことを語り、取り止めを求めた。しかし、青年には逆効果だった。行方の知れない旧友にも、小犬に喩えられる特徴があった。もしもその敗者が旧友だとしたら、彼の分まで実物を見ておかずにはいられなかった。
マスターは黙りこくっていたが、入口のマンホールから地底海岸までの道順を教え、致命傷を負って生還できなくても責任はとれない、と忠告し、オープナーと懐中電灯を青年に手渡した。
青年は、マンホールをオープナーで開け、それらを脇にどかすと、懐中電灯を頼りに下水道を進んだ。突き当りを曲がると、空洞から顔を出した梯子を見つけた。三点支持を守りながら降りる動作を繰り返すうちに、足が砂を踏みしめた。照明を動かすと、砂浜、岩盤、そして潮の満ち退きが露わになった。更に、照明の外でそれとは異なる明るみが浮いているのを、彼は見つけた。
青年は、自由形で明るみを目指した。窪みに着くと、岩肌が青白く発光しているのがわかった。棒状の器官が、動いては擦り合っていた。それらの持ち主が、ぎゅうぎゅう詰めになって蹲っていた。
青年は、漫画に正確無比な生命を前に、長いこと留まった。
青白い彼等が、飛来した。青年は懐中電灯を消し、水に潜って相手を撹乱しようと試みたが、仄かな光が水中の彼を包囲した。
青年は、全速力で岸を目指した。
指先が砂を掻くと、懐中電灯を点け、先に見える梯子に跳びついた。梯子を登り終えると、もと来た道を全速力で走って地上に脱出し、マンホールを閉めた。
青年は、息絶え絶えになってKAMOMEに帰り着くや、呼吸を整え、逃げ切るのに精一杯でお宝どころではなかった心境をマスターに語り、項垂れた。
マスターは、青年の長ズボンが不自然に突っ張っているのに気づき、指摘した。
その場でズボンを脱ぐと、三匹の小動物が裏地にしがみ付いてい
た。
「こいつらは…」
「……飼いましょう」
「正気ですか?」
「ええ。ライフワークですから」
青年は、借りていた道具をマスターに返すと、ズボンで三匹を包んだままにし、自身は別のズボンを借りてはき、近くの
ペットショップに行って水槽とエアーポンプを購入した。そして、砂を敷き、海水を注ぎ、ウニとホヤの間の子を入れ、水槽にアルミホイルを貼り、光を遮断した。更に、三匹の子供達は、敷居で作った個室にそれぞれ隔離された。
青年は、口笛を吹いて帰宅した。
割り箸で突つかれると、彼等はむずむずと動いた。魚の鰓のような器官以外は頑丈で、貝殻に触れているように思われた。餌は白子干しを好み、週に一回で十分だった。
